愛を求めた色男が迎えた衝撃の最期とは…!?
2月といえばバレンタインデー。家族や友人、恋人などにチョコレートと一緒に愛と感謝を伝える月でもあります。愛といっても形は様々。人の数だけ愛はあり…なんだか伝道師みたいになってしまいましたね…。話を元に戻しましょう。
今回ご紹介するのは失った愛の末に自ら命を絶ったとされる、とある画家のお話です。
時は遡ること20世紀初頭。パリのモンマルトルやモンパルナスにはフランス国内外あらゆる地域から様々な画家たちが集結し自由奔放な生活を送っていました。今日、彼らは「エコール・ド・パリ」と総称されています。
余談ですが、前々回ご紹介した「洗濯船」を覚えていますか?実はモンマルトルの丘に建てられたアトリエの名前にも使われ、ピカソなどのキュビスムを代表する画家たちが住んでいました。火災によりほとんど焼け落ち、現在の建物は再現されたものとなっていますが、焼け残った当時のファサードはショーウィンドウとして設置されています。
さて、エコール・ド・パリには「モンパルナスの王子」と呼ばれた画家がいました。彼の名はジュール・パスキン(1885−1930)。ブルガリアのユダヤ系の裕福な商人の家庭に生まれた彼はその才能を認められ、19歳にして風刺雑誌と専属契約を結び風刺画を寄稿しながらデッサンを修練し続けていました。翌年にはパリを訪れ、その後モンパルナス、モンマルトルへと移り住むと本格的に油彩画や水彩画に取り組むようになります。
こちらは当館所蔵のパスキンの作品《帽子を持つ少女》(1924)です。帽子を持った可憐な少女が椅子に座っています。おやおや、目線がこちらを向いていません。緊張しているのでしょうか?あるいはじっとしているのが飽きてしまったのかもしれませんね。
この絵が描かれた1920年代、パスキンは独自の作風を確立します。「真珠母色の時代(レザネ・ナクレ)」と称されるこの時期の作風は震えるような線描と淡い色彩、柔らかなタッチが特徴であり、官能的な裸婦や憂いを帯びた少女といった独特な雰囲気を纏った女性がよく描かれています。
パスキンはその美しい容姿と社交的な性格から若い頃から娼館に入り浸り、華やかな浪費生活を送っていました。色恋にも奔放だった彼には妻の他に愛人がいました。彼女の名前はリュシー。パスキンの友人の人妻でした。驚くことに妻と愛人の関係は不思議と良好で、3人はよく一緒に行動していたそうです。しかしリュシーは家庭を捨てることができず、結局2人の愛は結ばれずに終わりを迎えます。
パスキンは大規模な個展の開催前日に首を吊って自殺。彼の死因は鬱病やアルコール依存症など諸説ありますが、真相はいまだに不明です。しかし、自ら命を絶ったアトリエの壁には手首を切った時の血で「ADIEU LUCY(さよなら、リュシー)」と書かれていました。
パスキンの絵を見ると、愛に満ちた柔らかで自然な印象とともにどこか退廃的で孤独と倦怠感が感じられるかと思います。若くして画家となったモンパルナスの王子が放蕩と喧騒の陰に抱えていた内なる感情が作品に映し出されているのがうかがえることでしょう。
■ 諸橋近代美術館 西洋近代絵画担当 学芸員